コーヒー時間。

コーヒーと自らの生活を切り離したら発狂してしまう人は、かなり多いように思う。カフェラテなどのミルク系も含めたら、コーヒーを飲まない人なんてほとんどいないんじゃないかとも思う。まあ厳密な統計に興味があるわけではないけれど。

とにもかくにも、コーヒーを飲まないことが考えられない日常の中で、ではコーヒーを飲む時間とは一体どんな時間になっているのか、ふと疑問が生じた。佐藤にとってコーヒーは、仕事効率を上げるためのツールでもあり、友人と談笑するためのツールでもあり、そして新たな人間関係を構築するためのツールでもある。コーヒーの産地特性や果実味がものを言うこともあるが、そうではない状況もある。コーヒーを飲んでいても、手元の黒い液体がどんな味かに無関心になれる自分もいる。あくまで、それはコーヒーであればよい瞬間もある。コーヒーのアイディンティティは、味わうべき嗜好品だけでなはない。コーヒーが単なる象徴物でもある瞬間は、意外に多い。ただしそれは、コーヒーが全くの形骸に成り下がるわけではない。あくまでコーヒーが紅茶でもないしビールでもない自己を保ちつつ、むしろコーヒー味について語ろうものなら崩れてしまう場面というのがあるものだ。

以前はコーヒーを4杯以上飲むのが日常茶飯事であったが、佐藤はModeration : 節制を覚えた。美味しく飲めるのは3杯程度までだと気づいたのだ。そしてその内の一杯は確実に「仕事効率を上げるためのツール」として利用される。佐藤は程度の差こそあれ文章を書かない日がないので、絶対的に一杯はこの目的のために確保されている。つまり、3分の1のコーヒー時間は、あくまで自分だけのためにある。もちろん、仕事は生活を成り立たせるものであるから、3分の1のコーヒー時間こそが佐藤の人生の土台だとも言える。

では、友人と談笑するコーヒー時間と、人間関係を構築するためのコーヒー時間は、どのような頻度でやってくるのだろうか。絶対的な3分の1が「仕事効率を上げる目的」のために確保されていても、他の類のコーヒー時間は実に流動的である。朝の一杯目のような爆発力はないにしても、2杯目以降も仕事のために飲むことだってある。もちろん2杯目と3杯目はラップトップを開いていた行きつけのコーヒーショップではない行きつけのコーヒーショップに友人と行ったり、新しいコーヒーショップに一人で行ったりすることもある。あるいは、もう仕事疲れたからゆっくり本でも読みたいときにだって、コーヒーがないと始まらない(カフェインが切れてると手が震えてうまくページをめくれない?)。とにかくいろんなタイプのあるコーヒー時間だからこそ、それぞれを大切にしていきたいと思う。

仕事をしながらのコーヒー時間

仕事をしながらのコーヒー時間という言葉には、違和感しかない。コーヒー時間というのはなんとなくリラックスした時間のイメージがあり、仕事にはリラックスのイメージがない。そしてラップトップをカタカタ言わせながら飲むコーヒーは、どれだけ美味しくてもコーヒーをゆったり楽しんでいる意識とは無縁な気がする。それは「コーヒー」というよりかは「カフェイン飲料」と言った方が正しそう。

けれども、仕事をしながらでもコーヒーの味を楽しみたいし、コーヒーショップの空間に心地よさを見出したい。仕事をしながらでもふと顔を上げて誰かと目が合ったら恋に落ちたい。こんなことを言っていたら佐藤がどれだけ仕事効率が悪い人間かということが伝わってしまいそう。

けれども、どれだけ集中して仕事をしていてもコーヒーを飲んでいるのだからそれはコーヒー時間である。だからこそ、そのコーヒー時間を真っ当に楽しむべきなのだ。仕事をしながらのコーヒー時間、仕事してるっているよりはコーヒーを飲んでる、ていうか仕事をしてるという感覚はない、みたいな。むしろコーヒーをゆったり飲んでいて、なんとなく指を動かしていたら生活費を稼いでいる、みたいなそういうチャラい感覚をもっていたい。まあ、難しいけれどね。仕事は仕事だし。

友人とのコーヒー時間

友人とのコーヒー時間においては、その友人と会う頻度と親しさによって、コーヒーを介して繰り広げられる会話の質がまるで異なる。週に数度会う友人というのは大抵佐藤と同じくらいにコーヒーが好きだし、だからこそコーヒーの話をすることもある。そしてもちろん会う頻度も高いから、「元気?」なんていう発言は生じない。そして会う頻度が高いからこそコーヒーの味について語りすぎることに、お互い辟易してしまう。

あるいは、久しぶりに会う友人とコーヒー時間を共有することもある。そのときは必ず「元気?」という発言が生じる。そしてそれは、出会った瞬間ではなくお互いにコーヒーを頼んでから生じる。もちろん出会った瞬間に「元気?」と言ってもいいのだが、コーヒーが卓上にある、あるいは2分後には卓上に来るとわかる安心感の元でこそ、発せられる挨拶だったりする。それから互いに会っていなかったり連絡をとっていなかったりしていた期間の状況を話し、記憶として固定していく。もしかしたらストーリーで近況の一部を知っていたかもしれないが。多くの場合でストーリーで見たことは無視して会話が進められていく。「ほら、この前ストーリーにあげてたけどさ」とかそんな言葉が発せられると、せっかく「元気?」で緩んだはずの警戒心が舞い戻ってくる。ストーリーで好き勝手に自分を取り巻く状況を発信するのは自由だが、それを見ているという前提を敷かれると困惑してしまう。そしてこの困惑に対する共通認識さえあれば、SNS上の余計な話など出てこない。あるいは、かけがえのないコーヒー時間を共有できる友人であれば、その認識は当然のように共有しているかもしれない。

初めて行くコーヒーショップ

初めて行くコーヒーショップというのは、少しの緊張と過度の期待がある。緊張しているとは言ってももう行くと決めているのであれば、実は大して緊張しているはずもない。あるいは、緊張はしていてもその程度への自覚に勘違いが生じている。むしろ、気をつけなければならないのは期待や高揚感の方だ。コーヒーショップは増えすぎている。その中で、新しい刺激を欲する人間の性を調整できていないと、大きく幻滅することもある。もちろん、何か新しいものをもたらしてくれるから、コーヒーショップに行く意味もあるのだが。

初めて行くコーヒーショップの扉を開けるとき、その扉は必要以上に重い。ただし、目の前に繰り広げられるコーヒーショップとしてのアイディンティティ的光景、つまりはエスプレッソマシーンだとか、髭を生やしたバリスタやタトゥーの入ったバリスタだとか、そういうものにすぐに安堵できる。

緊張の瞬間は、注文時に訪れる。メニューを必要以上に長く眺めてしまうのは仕方ない。バリスタとのコミュニケーションが多少歪になってしまうのも仕方ない。問題は、たとえ歪なコミュニケーションの中でも、バリスタとバイブスが合うかどうか。もちろん気の利いたことを言えた瞬間や初対面にして共通点を見つけたときなどに「こいつとのバイブス調子いいぜ」と思うかもしれない。ただし、そうではない場合でもより野蛮な感覚レベルで「バイブスが合う」と感じられれば、コーヒーがまずくてもそのコーヒーショップをもう一度訪れる可能性は出てきそうだ。

コーヒー時間と読書

コーヒーを飲みながらの読書、なんという贅沢な時間なんだろう。多くの人はそう思うかもしれない。けれど、コーヒーを飲みながら読書をするなんて正直言って物好きの暇つぶしだと思う。

もちろん、僕にとってはコーヒーを飲みながら本を読むことは、日常の一部であり、それは自分が生きていくために必ずと言っていいほど行わなければならない習慣でもある。強迫的にコーヒーを飲んでいるし、強迫的に本を読んでいる。だから別に贅沢と言われても・・という感じではあるけれど、動的なものに忙殺されるのが現代人のスタンダードであり、コーヒーをゆったり飲みながら時折本のページを指でくる、というはたから見たら実に静的なシーンは、贅沢に映るのであろう。読書の世界に没頭していたら、それこそ仕事をしているときよりも、友人と食事しているときよりも、あるいはジムで汗を流しているときよりも、本人の頭の中としてはかなり激しいことになっているかもしれないのに。

そんな読書タイムにおいて、だんだんとページをくるスピードが遅くなり、目が同じ文章を何度も追い始めて、いつの間にか眠りに落ちてしまうこともある。昼寝は気持ちいかもしれない。ただし、せっかく読書をするのであれば、眠らないためにもコーヒーを飲んでカフェインを摂取しておきたいものである。カフェインを摂取したからといって、100%眠りを防げるわけではないけれども。

つまるところ何が言いたいかというと、コーヒーの香りによってリラックスしておきながら、しっかりカフェインも摂取して眠らず、むしろ明晰な頭で本の世界に没頭できる。これが最高だということなのだ。そして、1時間とか2時間とか集中して読んだ後でふと、顔を上げてそこがコーヒーショップであることを思い出すとき、僕はたまらなく幸せな気持ちに包まれるんだけれど、皆さんはどうですか?

コーヒー時間と音楽タイム

さて、読書をしているときに音楽を聴くかどうかの議論も尽きなんだけれど、とりあえず読書ではなく作業しているケースを前提として。コーヒーを飲みながら作業をしているとき、大抵イヤフォンをしてしまう。それは自分の好きな音楽を好きなときに聴きたいから。でも、コーヒーショップで流れる音楽に身を任せる時間も、意識的に設けることにしている。イヤフォンを一日中するのは疲れるし。コーヒーショップで流れている音楽を「Shazam」して知り、そこから好きになることも少なくはない。人との出会いもそうだが、そういう音楽との縁も大切にしたいものである。無音をコンセプトにしているお店もあるだろうし、喋ってはいけないお店もあるだろう。しかし、そんないじめられっ子みたいなお店を除けば、大抵コーヒーショップと音楽は切り離せない関係にある。ゆるくて心地よい音楽というのは、2010年代では確実に増加傾向にあるから、あるいはその傾向を作ったのはコーヒーショップかもしれないけれど、とにかくコーヒーショップで音楽を知ることもまた、重要な日常である。

コーヒー時間と、記憶。

特定のコーヒー時間において流れていた音楽やお店の雰囲気、そのとき交わされた友人との会話、それらを全て鮮明に覚えているということがごく稀にだがある。その記憶というのは、絶対的に大切にした方がいいかもしれない。だって、そんなこと滅多にないわけだし。

そして夢分析じゃないけれど、なぜその瞬間のことを鮮明に覚えているのかを、自分なりに考えてみても面白いだろう。あのとき一人で入ったコーヒーショップの気になったバリスタの名前を思い出したいはずなのに、奇妙なテキサスの3ピースバンドのインスト曲が流れ自分の中のコスタリカの概念からは外れるけれども美味しい農園でそのとき自分は先にお店に入って友人を待ち友人とはラクレットとグランピングの話をしたそのとき向かいに座っていた人はビビッドピングのヘッドフォンをしていて・・その全てを鮮明に覚えてしまっているとき、それは過去からの重要なメッセージかもしれない。

家でのコーヒー時間

これはまだ自分の生活の一部となっていない。北欧には”fika”(フィカ)という慣習・文化がある。このフィカが日本に定着することはまずないだろうと思う。あるいは、コーヒーのフォースウェーブなるものが到来するとき、そこに「家コーヒー」が密接に関連して入れば「フィカ的な要素」も絡んでくるかもしれない。つまり、レベルの高いコーヒーを家で楽しめること、コーヒーを飲みながら家で談笑すること、コーヒーを飲みながら美味しいお菓子を家で食べることなどが絡む形で。北欧のこのフィカはコーヒーが絡んでいる点で注目してしまうが、イギリスのアフタヌーンティーや欧米諸国全般に見受けられるホームパーティーなどの片鱗すら日本の文化には見受けられない。だからこそ、フィカが定着することは難しそうだ。縁側で貰い物の甘味を頬張りながら、あるいはこたつで煎餅やみかんを食べながらお茶を飲む光景はなんとなく日本人の記憶の中に定着しているが、ではそれを少しでも実践している東京人がいるかというと、ほぼいないに等しいだろう。その光景は、フィカの萌芽とも言えるものだが、残念ながら花が咲き実を結ぶことはなかったのだろう。

もしかしたら家コーヒーのレベルは今後飛躍的に上がるかもしれないし、別にお店とそっくり同じクオリティのコーヒーを飲む必要はないという、価値観の変化・完璧主義からの脱却は起こるかもしれない。

ただ、それでも「どうせ飲むなら美味しいコーヒーを飲みたい」「どうせコーヒーを飲むなら素敵な空間にいたい」「どうせコーヒーを飲むなら髭の生えたカッコいいバリスタとおしゃべりをしたい」と思ってしまうのが日本人の性かもしれない。そう考えると、喫茶店文化はあったにせよ今のいわゆる「コーヒー」が海外の流れを太く汲みとったものだからこそ、日本人にとって珍しくおしゃれな空間や髭の生えたダンディな男性などのコーヒーショップの要素に対して我々は執着しすぎているかもしれない。つまるところ、どれだけ毎日コーヒーを飲みそれが習慣になろうと、コーヒーは非日常的なものであるという認識が根底にあるのかもしれない。

あれ「コーヒー時間は素敵だよ、いろんなコーヒー時間があるよね」というテーマだったはずなのにフィカだとかフォースウェーブだとか、真面目な話をしてしまった・・。ちょっと恥ずかしい気持ちになってきたから、コーヒーでも飲もうっと。

1枚目の写真: Paddlers Coffee

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